本を評するとは
偶然立ち読みした本に、私が常々考えていたことが綺麗に書かれていた。
教養ある人間が知ろうとつとめるべきは、さまざまな書物の間の「連絡」や「接続」であって、個別の書物ではない。それはちょうど、鉄道交通の責任者が注意しなければならないのは列車間の関係、つまり諸々の列車の行き交いや連絡であって、個々の列車の中身ではないのと同じである。これを敷衍していえば、教養の領域では、さまざまな思想のあいだの関係は、個々の思想そのものよりもはるかに重要だということになる。(p32)
『読んでいない本について堂々と語る方法』ピエール・バイヤール:著、大浦康介:訳
個別書物に対する高い理解には敬意を表するが、みんながみんな職人では困る。それに大抵は職人ではなく、論語読みの論語知らずである。
私から発せられる「ソリューションってどういう意味なんですか?」という質問に対し、トートロジー満載の虚事を繰り返す職場の面々への並々ならぬ思いを胸に、私は嬉々としてレジに向かった。
だが持ち帰って読んでみるとこうも書いてあった。
すでにみたように、ある書物について語ることは、それを読んでいるかどうかにはあまり関係がない。語ることと読むことは、まったく切り離して考えていい二つの活動である。(中略)本について語ること、ないし書くことと、本を読むことの違いは、前者には、顕在的であれ潜在的であれ、第三者が介在するということである。この第三者の存在が読書行為にも変化を及ぼし、その展開を構造化するのである。(中略)本について語るときに問題になるのは間主観的な関係である。すなわち、<他者>との関係――それがどのようなものであろうと――が書物との関係にたいして優位に立つような心理上の力関係である。そこでは書物との関係じたいが結果的にそれによって影響を被らざるを得ない。(p177)
なるほどと思った。(発行年が最近だったことも)
「この本には●●が××というように書かれているが、●●は▲▲として理解されるべき」みたいな書評はよくあるし、あって然るべきと思うが、まず書評者が「●●は~」にフォーカスして書評する理由を明かす方がフェアだ。
ここに至るには「なぜ私はこの本に興味を持ったのか?」という問いが必要だし、それ以前に「私はどういう奴か?」を語るのが自然だろう。
本を評するとは、本と自分の立場を評するということで、まず評すべき対象は自分だ。
食わず嫌いであり、拾い食いを好む
この文から想像される人物は、他人のオススメは素直に受け入れないくせに、自分では良し悪し問わずに四方八方に手を出す、つまり「偏屈」な奴だ。
「勝手にしろ」と言ってやりたいが、残念ながら私のことなので、末長い対峙を余儀なくされている。
一度誠実に偏屈に対して向き合ってみようと思う。
TV番組を例に「偏屈」に向き合う
皆さんはかつての名番組『とんねるずのみなさんのおかげでした』の代名詞的コーナー「食わず嫌い王決定戦」をご存じだろうか。
説明不要と思うが、この番組にはとんねるずの2人の他にゲストが2組登場する。彼らには事前に自身の好きな料理を4品ずつリストアップしてもらい、ゲストととんねるずが食事をしながらトークを展開する。
一見普通のトーク番組だが「4品の内1品は嫌いな料理を仕込む」という仕掛けが施されていて、ゲストがタカさん陣営、ノリさん陣営の二手に分かれ、互いの食事のリアクションを観察して「嫌いな料理」を当てるのがこの番組の主旨である。
ゲストは全ての料理を好物かのように様々な演技をしながら食べていくが、番組の最後では嫌いな料理がバレてしまう。
結局白状して「嫌いな(食べない)理由」を語るのだが、それがつい先ほど飄々と語っていた「好きな理由」と正反対の理由だったり「そんなことで?」と笑ってしまうようなエピソードが明されるなど面白かった。
「嫌い」は「好き」よりもオリジナル
これは世で最も純真な生き物として名高い女子小学生らの界隈において「みんなが『好き』って言ってるから●●君のこと好き!」という声明はよく聞かれるが「みんなが『嫌い』って言うから××君のこと嫌い!」とは言わずに個々に様々な論拠をまくし立てて××君を煙たがる現象からも見て取れる。
ここで述べたいのは、私の偏屈の半分が女子小学生と同じ成分だという新発見ではなく他人と同じでは自分の見解は手に入らないということだ。
ここでの自分の見解というのは、独自性のことである。
これは、嫌いなエピソードを話す有名人と××君を嫌う女子小学生において共通している否定的な批判の際に発露する独自性だ(この独自性を肯定的な批判のシーンでも持ち出すのがプロ、すなわち批評家である)。
「▲▲の理由で××君のことは嫌い!」という女子小学生諸子の言説には「▲▲という観点から評価すると、●●君は××君より優れている」という情報を発言してやるぞという意志が内在している(言うまでもないがこれが『残酷な天使のテーゼ』である)。
意志は強くなるほど詳細に表明される。そして詳細化は対象から観点に及び「生理的に無理」で代表される議論不能で非論理的な個々独自の文脈から発せられることになる。
この一連の流れは「拒むことによる自己を詳細化」と捉えられる。
他者に勧められた料理でも趣味でも異性でも見境なく手を付けていくのは、自分の無さの表れと言ってもよいし何より行儀が悪い。
とは言え、他者を拒むためには、寄る辺となる根拠が必要だ(人生はギブアンドテイクだ)。
ここで表れる根拠はよくある自己啓発本において、自分の「芯」とか「軸」と言及される自分を自分たらしめる根拠だ。
自分を自分たらしめる根拠とは何か?
――まずそんなに構えずともよい。渋い顔をして鏡を見ても風呂場以外で良いことはない。
この「根拠」は目では見えないが、確かに存在していて観察可能である。
ブラックホールやブラック企業と同じで、それ自体は目に見えないが周囲の情景が歪んで見えたり、近づくと極端に時間の流れが遅くなるという事実から分かるように、周囲の事象を観察することで観測可能である。五里霧中に直接突っ込めばズルズルと深みに嵌り、やがてすごい圧力で潰されるだけである。
想像力がジャニヲタ並みの諸姉らには「今日、京セラドームにおいて野球の試合が予定されているのか、あるいはジャニーズのライブをやるのかどうかはドームの周りを観察すれば分かること」と同義とご理解頂ければ幸いである。
周囲の事象を観察することで観測可能になる事象については、私の偏屈のもう片翼を担っている拾い食いについて思考してみるのが良い。――そして拾い食いへの理解は、世で最も卑屈な生き物として称えられる男子大学院生の思考様態を覗くのが助けになるのは想像に難くない。
自分たらしめる根拠――男子大学院生の「拾い食い」
――遠くに来てしまった気がするが論考は継続される。
彼らの大半は自己愛が強くて卑屈なので、他人と比較されることを忌み嫌い、その回避のために貴重な半生を費やす。そして選択されるポピュラーな方法は、自分を外界から隔絶し、唯一無二の存在となることで論理的な比較不能を獲得するという方法だ(学内発表会での論文タイトルがどんどん複雑になる根源的原因である)。
そして外界との隔絶は彼らから新しい事象との出会いを喪失させ、彼らを自分起点での事象の探索――自己の内的拡張(森見登美彦氏曰く)に誘う。
これは、急に「●●に目覚めた」とか「××という天啓を得た」とか「――八木に電流走る」などとアイディアから他者性を排除した、純粋な自己起点の表明として表現される。
(彼らはこうした物言いによって、世間から奇怪なものを見るように見られるというコミュニケーションの失敗については立ち入らない方が賢明だろう)
言うまでも無いがこれらの天啓は彼らが外界との接触を通じて目や耳にしたものを吸収しているのであり、彼らの精神世界から突如として(森見登美彦氏曰くタケノコのように)生えてくるものではない。
彼らは「自分で」目や耳にしたものをこよなく愛し、手ずから見出した、見初めたという点のみを評価し崇め奉ることで、外界と接触していた事実を有耶無耶にしてしまう愛らしい特性を有する。
加えて「今更そんなテーマやるの?」というようなオリジナリティの欠片も無いものでも、微細な違いを見出しては「新発見だ」や「驚くべき事実と遭遇した(村上春樹氏曰く)」と謳いあげる。
論文中にカッコ付きの文言が盛んに出現し、注釈が無限に増える傍らで本論が一向に進まずに秋学期卒を検討する哀れな学生の増加量と、無名地下アイドルのファン1号の増加数が比例関係を有するのは有名な話である。
ここまでで論じてきた営みは自らの近辺で、手ずから発見した事象に対して、自分なりの解釈を与えていく活動と捉えてよい。
この活動は、下宿のアパートの一室にはおよそ食糧と呼べる食糧はないが外に出たくもなく、とはいえ人間食わずには生きられないので細い目を凝らしていたらようやっと見つけた先の伸びたタマネギを手に取った際に「あ、多分これ大丈夫」と考える思考、拾い食いである。
男子大学院生は周囲からは観測できないが男子大学院生が拾い食いしたものは観測できる。そういうことだ(村上春樹氏曰く)。
村上春樹氏には悪いが、もう少し踏み込んでみよう。
自分の周辺を探索することで発見された事象に対して、男子大学院生の心は寛容である。なぜならそれは手ずから発見した事象だからである。彼らは自己愛が強い。
つまり「自分を自分たらしめる根拠」の発見のためには自分の周辺を探索することのみが頼りであり、自分の周辺の延長に自分の根拠がある。
食わず嫌い、拾い食う理由
本論の目的は「なぜ女子小学生はいつか成人してしまうのか」という残酷な問いに答えることではなく「なぜ私は他人のオススメは素直に受け入れないくせに、自分では良し悪しに関わらず四方八方に手を出すのか」という問いへの答えを提出することである。
重要だがここまで述べてこなかったこととして、かつての私は敬虔な男子大学院生であった。ゆえに心の内で男子大学院生が暮らしている。(もう隠し事はない)
だからオススメに乗っかり軽々に「あ、私も好き」と言ってしまうことは他者への迎合を意味し、ひいては自己の内的拡張を妨げる悪しき行いである。
そして内側への弛まぬ拡がりを継続する「自分を自分たらしめる根拠」を探すための周辺の開拓活動、拾い食いを辞さないのである。これは施しだと意味がなく、自分で手に入れなければならない。
で、書評は?
「本を評するとは」(本論1行目)
本論では問われ続けるバラエティーの意義を概観しつつ、夜空に拡がる天体の不思議にまで思索の射程を伸ばしながらも、未来の日本の産業技術基盤を支える学生諸君の存在意義にまで問題点を敷衍することで、私と『読んでいない本について堂々と語る方法(ピエール・バイヤール (訳)大浦康介)』との間主観的見解に迫ってきた。
評価者が付けた切り口の存在自体が書評そのものと結論付け、最後はこの本の引用で締めようと思う。
私がこれ以上語ってもMr.マリックがヨーダにハンドパワーを教えるようなものである。
書物において大事なものは書物の外側にある。なぜならその大事なものとは書物について語る瞬間であって、書物はそのための口実ないし方便であるからである。ある書物について語るということは、その書物の空間よりもその書物についての言説の時間にかかわっている。(p243)
極端にいえば、批評は、作品とはもはや何の関係ももたないとき、理想的な形式にたどり着く。ワイルドのパラドックスは、批評を事故目的的な、支える対象をもたない活動とした点である。というより、支える対象をラディカルに移動させた点にある。別の言いかたをすれば、批評の対象は作品ではなく――(中略)――批評家自身なのである。(p260)
方便にお付き合い頂いたということで、お礼を言いたい。
「みなおか」という略称が嫌いだ
「みなさんのおかげでした」の面白さはバナナマンやおぎやはぎといった、それぞれに実力の高い個人商店的芸能人同士が意外にもなかよしであり、ドライな関係ながらもどこか可愛げが垣間見えるという、ある種の殺伐さに立脚した面白さであるのに対して「みなおか」という略称からは「みなみけ」のような無抵抗に両手を上げたほのぼのさを想起してしまう点が好かんからという論理的で万人に理解可能な事実を起点とした不満が理由である。これは驚くべき事実だが、唐突ではない。
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